(画像は展覧会のフライヤーです)
(この記事はnoteにも掲載しております。noteでは投げ銭を受け付けております。もし気に入ったらnoteの方で投げ銭していただけるとありがたいです。
noteの記事はこちら→ https://note.mu/imyme/n/n2af3203e3902 )
本日9/28、京都大学総合博物館にて「明月記と最新宇宙像」展を鑑賞しましたので感想を書きます。この展覧会は10/19まで京都市美術館で開催中です。いま詳しい内容や批評を読みたくない人はここから下は読まないでください。
-------------------
私にとっては珍しく、美術以外のジャンルの展覧会たが、それはテーマが「宇宙」だったからである。夜空を観察したり、また宇宙関連のニュースを聞いたりして、私も宇宙に属する小さな存在なんだと思い、宇宙を題材とした絵をいくつも描いてきたからである。
そうした宇宙に関する展覧会ということで観に行った。
観に行った感想は、やはり「明月記」の中の超新星における記述がいかに貴重であったかということである。
「明月記」とは藤原定家(1162-1241)の日記である。藤原定家は鎌倉前期の歌人であり「新古今和歌集」「小倉百人一首」の撰者である。ほかに古典の書写も多くしたので、定家の仕事がなければ現在の私たちが読むことができなかった古典が数多くあるのだ。
明月記は生涯にわたって書かれ、19歳(1190)から74歳(1235)までの日記が現存し、国宝である。当時の政治や宮廷のことについて詳細に書かれているほか、個人的に興味を持った出来事も記されている。
この中に3件の超新星出現記録が記されているのである。望遠鏡使用以前に裸眼で観測された超新星の記録は7回しかなく、このうち3回も記録されているのは世界でも明月記だけだそうである。
実際に観測・記録したのは陰陽師の安倍氏であるが、定家も天体現象に興味を持っていたのであろう。これらは安倍康俊に報告をさせたものである。
明月記に載っている超新星の記録は1006年、1054年、1181年のもので、客星(通常は見えない星のこと、この中に超新星が含まれる)と書かれている。このうち1054年の超新星は2年間も見えていたそうだが、当時の記録は中国と日本のほかアラビアに簡単な記録があるだけでヨーロッパには全く記録がないというのが驚きである。だから18世紀にこの位置に星雲が見つかるまで忘れ去られていたようで、やっと見つかった星雲が有名な「かに星雲」である。
この「明月記」はのちにアマチュア天文家の射場保昭(1894-1957)が英文で米国の天文雑誌に紹介し、世界の天文学に大きな影響を与えたそうである。
そのほか、京都大学関係者を中心に天文学に貢献した学者たちが紹介されていた。なかでも花山天文台の初代台長となった山本一清のアマチュアの育成、そして石塚睦のペルーでの観測所の建設などペルー天文学の父と呼ばれる活躍などが印象に残った。やはり、どの分野でも育成は大切だと思った。
そして最新の宇宙に関する研究の成果。わずか数十秒間だけ忽然とガンマ線で輝く謎の天体、ガンマ線バーストや、超新星の残骸の観測の成果、そして太陽とよく似た星で、これまでに太陽で観測された最大級のフレアの1万倍にもなる「スーパーフレア」が観測されたこと。最新の成果はもう少したくさんみたかったが、今回の主題は明月記であるからここは明月記が主役ということで。
明月記の記録を読んで思ったことは、やはり、ものを観察し、それを記録することが大切なことである。そして学問・研究を発展させるには人のつながりが大切なこと。藤原定家は陰陽師に現象を報告させて記録し、それを射場保昭が世界に伝えた。射場はその後世界中の天文学者と交流を持ち、射場の天文台には世界中から天文学の資料が送られてきた。
一見「明月記」の世界は文系の書物であり、かたや現在の宇宙研究は理系のものと思われがちであるが、宇宙というのは文系理系かかわらずすべての人が属する世界なのである。だから私はこれからも宇宙について考え、知りたいし、宇宙に関する作品を創り続けたいと思う。