9/16に京都国立近代美術館にて「近代洋画の開拓者 高橋由一」展を鑑賞しました。この展覧会は2012/10/21まで京都国立近代美術館で開催されます。いま内容や批評を読みたくないという人はここから下は読まないでください。
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高橋由一といえば中学だか高校だかの歴史か美術の教科書で見た「鮭」の作者である。縄で吊るされた新巻鮭を描いた作品で、重要文化財である。ただ私はその絵の実物を見たことはこの年になってもまだなかった。それに展覧会のチラシを見ると「洋画を日本に普及するのが自分の果たすべき使命」「日本には洋画が必要なのだ、ということを必死になって世間にうったえた」などと力強い言葉が並んでいたので、その情熱に触れたく鑑賞することにした。
朝9時頃に美術館に着き、開館の9時半まで美術館付近で時間を潰した後、開館とほぼ同時に入館し、鑑賞を始めた。会場の企画展示室に入ると目の前に展示されていたのが重要文化財の「花魁」だった。5人ほどの小さな人だかりが出来ていた。「花魁」は当時美人として名高かった新吉原の娼妓・小稲をモデルに描いたと言われている作品だが、見てみるとどうしても美しいとは言いがたい。妙な存在感はあるけれど、着物はごわごわしているし、顔も、モデルは当時23,4歳だったらしいがそれより老けて見える。それまでのいわゆる美人画を描く気は、由一にはなかったのかなあ、と感じた。
展覧会の構成は下記の通りであった。
プロローグ 由一、その画業と事業
1 油画以前
2 人物画・歴史画
3 名所風景画
4 静物画
5 東北風景画
プロローグでは由一の自画像が展示されていた。現存する唯一の油彩の自画像「丁髷姿の自画像」は、由一の初期の作品だが、面長で口の大きい特徴がよく出ている。ただ、細部の描き込みにこだわりすぎたか、顔や身体などの全体的な形がいびつな気がした。
また当時の資料「高橋由一履歴」は由一が自らの画業を振り返り、息子が編集して自費出版したもので、由一が自らの画業を事業として考えており、後世に伝えようとしていたことが伺える。
油画以前では「上海日誌」や「スケッチブック」など、とにかくなんでも見て描こう、そして記録に残そうという気持ちが伝わってくる。また「博物館魚譜」は既に細密に真に迫る描写をしており、のちの油画につながるものだと思った。
人物画・歴史画では、多くの肖像画が展示されていたが、ほとんどが写真を見て描かれたようだ。その中では「第十一代山田荘左衛門顕善像」が、なにげない、穏やかな表情をとらえていてリアルだなあと思った。「第十一代山田荘左衛門顕善像」については制作依頼から納品までの記録が残っており、この絵に関してもまず写真をもとにしているが、本人に会って写生もして下図を作成したようである。また由一は歴史を題材にした絵も描いており「日本武尊」は強さ、迫力を感じさせる作品だと思った。
名所風景画は、その構図や、名所の風景という題材が、浮世絵の影響を受けているなと思った。というよりも、浮世絵に描かれた風景を油絵で再現したのだろうか?と思った。「墨水桜花輝耀の景」の桜の枝が画面を覆う構図などは浮世絵を参照したものだろう。でも桜の花びらがキラリと光ってきれい。それから「中州月夜の図」は漆黒の闇の中央上部に月が描かれ、月のすぐ下の雲も光り輝いてとても神秘的だ。さらに「鵜飼図」は燃え盛る火に水面を泳ぐ鵜と、船に乗った鵜飼たちが描かれ、明暗のコントラストが強調されていて印象的だった。
そして静物画。由一の絵の特徴は、その質感の描写へのこだわりだと思うのだが、それは静物画においてもっともよく発揮されていると、この展覧会を見て改めて思った。「鯛図」「鴨図」と、鯛や鴨の実物が目の前におかれているかのような迫真性があった。「豆腐」なんかはまな板の上に油揚げや豆腐がぞんざいに置かれた絵で、さあ豆腐を買ってきたぞ、これから味噌汁を作ろうかという情景が想像できる。「豆腐」みたいな絵は従来の日本絵画にも見られない絵である。武具を集めて描いた「甲冑図(武具配列図)」は由一の細密描写が存分に発揮され、ものすごく華やかというか賑やか絵になっている。さらに「貝図」は大小・形状の様々な貝殻を横に長い4面の連続した画面に描いており、質感にこだわった表現が不思議な世界をかもしだしている。
鮭の絵は3点展示されていた。真ん中に重文の「鮭」左に板に描かれた「鮭図」右に伊勢屋という旅館の帳場に掲げられていたという「鮭」が並べられていた。なんでも鮭は数多く描かれたらしい。目玉商品だったんだろうか。重文の「鮭」は140.0x46.5cmの大きな作品で、この大きさで縄の質感やぎょろりとした目、鱗や皮の質感など丹念に描写されると本物が目の前にあるようである。また板に描かれた「鮭図」は板の上にこれまたリアルな鮭が描かれて、一種のだまし絵のようである。鮭の絵が描かれたのは由一の最も脂の乗った時期であるという。絵を見たらそれも納得である。
最後は東北風景画。明治14(1881)年以降の東北地方に取材して描いた風景画を中心に、東北の人々の肖像画も展示してあった。風景画は東北の実景に即して描かれ、江戸の名所絵的な風景画とは違った記録的な作品であった。そして膨大な石版画の下絵が展示されていた。由一が明治17(1884)年に当時福島と栃木両県の県令であった三島通庸の委嘱を受け、100日を超える栃木・福島・山形3県の写生旅行で描いたものだ。近代化の過程、まだ多く残る自然を克明に記録していったこれらの下絵を見ると、自ら課した使命のために頑張る姿を想像してしまうとともに、展覧会のチラシには「絵が好きで画家になりました、といった甘さは微塵もなく」と書いてあったがこれは絵が大好きでないとできない仕事だろうと思った。
洋画の普及をはかった高橋由一。由一は洋画を、社会の役に立つもの、実用的なものと考え、洋画で社会に貢献しようと実践していたようで、やはり絵を描く私にとっては考えさせられるものがあった。
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