この展覧会は、1/22に鑑賞しました。この展覧会は2011/2/20まで京都国立近代美術館にて開催された後、愛知県美術館で2011/4/29から6/12まで開催されます。
いま詳しい内容や批評を読みたくないという人はここから下は読まないでください。
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麻生三郎の作品をまとめて鑑賞するのは今回が初めてだった。なんでも実に15年ぶりの本格的な回顧展だそうだ。それだけに戦前戦中の写実的な画風からだんだんと混沌とした画面へ近づく過程をじっくりたどることができた。
フライヤーにも使われている「自画像」はこちらにかみついてくるような勢いと、青年らしい個性が感じられ、写実の重要さを認識したヨーロッパ旅行中に描かれた作品はどれも味わいがあった。
また「花(アマリリス)」は立ちのぼるようなタッチで花の鮮やかさが表現され、生活感も感じられた。
戦時下の困難な状況の中で麻生は繰り返し妻や娘、自分自身を描き「『人間のいる絵』を思いつづけた」という。この『人間のいる絵』はその後画風が変化していっても作品に貫かれており、それが麻生の作品の本質であろう。
この頃の女や子どもの絵は暗い背景の中に沈み込み、しかしはっきりと描かれている。
そして、人間がふたり描かれている「ひとり」というタイトルの絵が一番心に残った。
人間が2人体温を感じるように抱き合っている、だけど、それでもひとり。人間という存在のせつなさ、孤独をなぜか感じ「ひとり」という言葉を私はこの絵を見ながらかみしめた。
「赤い空」の連作は、重苦しい都市風景と、それに拮抗しながら存在を主張する人間を描いている。なかでも「赤い空と人」は画面いっぱいに暗赤色の空がひろがり、描かれている人や風景は空に溶け出していくようだ。都市の、社会の圧力というものを麻生は押しつぶされそうなほどに感じていたにちがいない。
そして1960年代に入ると、人物と周囲の空間がますます溶け合っていく。1960年の日米安保闘争に際して描かれた「死者」やベトナム戦争に触発されて描いたという「燃える人」はやはり麻生が身近なものだけでなく社会と向き合い、社会に抗する、そんな思いがあったのだろうと感じさせる絵である。
また、人体と骨か肉の塊がちらばっているような「ある群像」や、焼けただれたような画面に赤に照らされた胴体が浮かぶ「頭と胴体3個」は人間の存在、個の存在をさらに強く訴えているように感じた。
晩年になると人物と空間との境界はますます曖昧になり「人いる人」「りょうはしの人」は画面の上から下へと絵具が濁流のように流れるようにして描かれている。人体はかろうじてそこにあるという感じで、しかしそこにも存在を感じるのであった。
麻生三郎は生涯人間の存在とどこまでも対峙し、空間と人間、社会と人間のかかわり合いをつきつめた画家であるといえよう。
麻生の作品は私に人間ともっと向き合わなければ、かかわらなければいけないと言っているように思えた。